こころのランゲージ
- 心と言葉は同じもの -
自殺に関する研究や心の相談などに関わっていながら、常に思う疑問があります。
もちろん、今始まった疑問でもありませんし、私だけがする特別な疑問でもありません。
'心は、どこにあるのか'という、とても漠然で、しかも哲学的な疑問。
この連載を書き始めた頃、一番最初に書いた内容もこの疑問についてでした。
先日、大学の講義後、学生から提出してもらった小レポートにも同じような疑問が書いてありました。
"
先生は、心はどこにあると思いますか?"
この疑問についてアカデミックな観点から考えると、数々の脳科学や神経科学、また、心理学研究分野などで活発な研究が行われ、それなりの結論も出ているかと思います。
しかし、今回の連載で話したいのはそのような研究結果ではなく、私自信が人と向き合いながら、その中で感じた心の姿について話したいと思います。
前回の連載で、「人は言葉によって生きる、だから、人は自分を支えてくれる一つの言葉に出会う必要がある」と書きました。
人は、言葉によって生きる!このフレーズの中に心の存在を知る大きなヒントがあるように思います。
私たちは生活の中で「あの人は優しい心を持った人、あの人は厳しい心を持った人」など、自分なりの見方で他人を判断したりしますが、その判断の基準は、相手の口から出てくる言葉に左右されることが多く、その言葉によって喜びや悲しみ、怒りなどの感情の変化を感じる時もあります。耳に伝わってくる音声信号に過ぎない言葉になぜ、そこまで反応するのでしょうか。
言葉は、心の姿が表に現れた形のことだからです。
表に現れた心の形=言葉によって、元気をもらったり、落ち込んだりするのです。
言葉には、人を生かす力と殺す力の二つの顔があり、言葉を通して人の心は生きる力を得たり、逆に生きる力が奪われたりもします。
日本語には、言魂(言霊)という言葉がありますが、それは、「言葉に宿ると信じられた霊的な力」のことを意味しています。
また、宗教の経典として歴史あるバイブルにも、「言葉は神であった...この言葉に命があった」という文があるなど、言葉には私たちの想像以上の力が秘められていると推察できます。
だから、心を綺麗にしたい、心を強くしたいと考えているならば、まずは、自分が使っている言葉を見直す作業が必要でしょう。
私は最近、どんな言葉を使っているのか、どんな言葉に敏感に反応しているのか、どんな言葉を吸収しているのか、言葉の習慣の見直しを通して内面の姿を観察する必要があります。
言葉の習慣が変われば、物事を捉える見方も変わるでしょう。
見方が変わることは、行動の変化も意味します。
言葉が変わるだけで、なぜ?このような現象が起こるのか。
言葉の習慣が変わることは、その人の心の姿勢の変化を意味しているからなのです。
あなたはどんな言葉の習慣を持って生きていますか?言葉は、心であることを忘れないで下さい。
次号では、「こころのランゲージ-毒針と言葉という武器-」についてお話します。