正しい言葉と優しい言葉
- 正しいことが良いとは限らない -
数多くの言葉が世の中に散乱している中で、どのような言葉に耳を傾け、心に受け止め、判断の基準として活用すれば良いのか迷う瞬間があります。
だからこそ、人は正しい言葉を探すために多くの時間を使って人に相談し、本を読み、経験を重ねるのです。
同然、このような一連の流れで「正しい言葉は良い言葉」という意識も定着していきます。
しかし、正しい言葉が本当に良い言葉であると言い切れるのでしょうか。
1997年、韓国は通貨危機(国家破綻の危機)を経験し、国際通貨基金 (IMF) からの資金支援の覚書を締結した事件がありました。
この時の韓国経済は大パニックになり、IMFからの緊急融資で乗り切ったものの、金融や労働、企業等の改革を迫られ、社会・経済構造が激変していました。
この時に多くの人が自殺に追い込まれ、自殺者数は1995年の4,930人から8,622人(1998年)まで急増するなど、社会全般において重い空気が漂う時期でもありました。
中小企業は倒産して一人ひとりが社会的孤立に立たされることも数多くあり、関係者は自分の責任から免れるために、若しくは辛い環境の中でのストレスに押しつぶされ、責任者を攻め立てて正論をぶちまくる激しいことも珍しくないことでした。
「あなたがその時に私の意見を聞いていたならば、このような目には会わなかったでしょう」、「すべての責任はあなたにある。私はその時にちゃんとあなたを引き留め、方針を見直すようにお願いしたんだから」などのような意見としては間違っていない数々の正しい言葉が相手を追い詰めていたのです。
中小企業や自営業をやっていた人は自分の責任を感じ、自ら死を選ぶことも少なくありませんでした。
正しいことを言う、結果、相手が死を選ぶ、もしこのような流れが成立するならどんな理由であれ、正しい言葉が良い言葉になれるとは思いません。
正しい言葉には相手を切り離し、「冷たく感じさせる力」という特徴があります。
その特徴を理解しないで使うと、人の心に深い傷を残したりすることもあるでしょう。
「冷たい性質」は、ものことを「固くさせる」ことにつながります。
そして、固いものは「人を刺す力」に変わっていくのです。
真冬によくあるツララ、冷たくされ、固くなり、その尖った先端には人を傷つける力がある、私たちの周りにある一つの例かもしれません。
辛い時こそ、苦しい時こそ相手を励ます優しい言葉、今は実現できないことだから嘘にも聞こえるかもしれないけど、「大丈夫、もう一度立ち上がれる、これで終わりではない、ほかの人はわからないけど、私はあなたを応援する!」のような言葉、この言葉で相手が死の谷から生きる光を感じるならば、これこそが良い言葉なのではないでしょうか。
次号では、「兵士の銃・外科医のメス・人の言葉」についてお話します。